不昧公と茶の湯2 茶の湯の視覚美

さて、利休の茶室の床の間─掛軸について考えてみるに、掛軸は利休の茶の湯の口伝中に「遠い物の第二」とよばれているという。
即ち茶道具の主役ではないのである。

なんてぶっちぎりっぷり。

でもこれって烏鼠集あたりの話だと思うが、これを利休口伝というのはどうなんだろう?

南坊録の「掛物ほど第一の道具はなし」は著者の中でどうなっているんだろう?

ではなぜ掛軸が遠いものかというに、それは掛軸のもつ主体性を嫌ったからである。
それが絵であれ、字であれ、その軸は自体一つの意味を持っている。
一つの世界一つの主題を持つものであるから、茶座敷全体で一つの新しい世界を演出しようとする利休にとっては都合が悪い。
主体が二つになっては困るのである。
(略)
時代が下るにつれて掛軸はだんだん「近い物」になり茶会の空気を支配するようになって行く。

なかなか含蓄のある意見である。

例えば点前座の卓にでかでかと「一期一会」とか貼ってあったら「お、おう」としか言えないもんな。

つまり近代の茶の湯は、掛軸のストーリー性におんぶにだっこしてもらっている、という批判でもあるわけか…