不昧公と茶の湯

安部鶴造/今井書店/1960年。

島根の新聞に連載された、不昧公に関するエッセー。

なかなか鋭い指摘があり、面白い。

道具茶という言葉がある。
あまり好い意味を持たせられていない。
むしろ皮肉った言葉であることは、周知の通りであるが、移してもって、世間一般人からみた茶人達への見方である。
即ち一般人からみると、茶人という連中のやっていることは、道具茶なのである。
特殊な物品を珍重、値打付けして自ら好しとする、度し難い仲間とさえみられ、茶道即邪道などと、ののしられたりもする。

冒頭からミもフタもない。

そこでその茶人連は、この「心なき」たわ言を退治すべく「茶禅一味」「和敬清寂」是茶道の境地とかいって対抗し、(略)自ら好む道を崇厳化し、是を玩ぶ根拠を高く価値付けしようとする。

ほんとミもフタもない。

「茶道」という言葉は、どうも徳川初期に出来たのが正しいらしい。
時代と共に形而上的な意味合いが導入され、高貴な教説となって行った。
(略)
ではこんな観念化は何で起こるのかというと、約言すれば粉飾である。
己が道を荘厳化するのである。我が仏尊しである。自慰もあるだろうが。
前述した如くこの娯楽は富力を要した。
次には権力でその道具欲を満足させもした。
既に一つのまとまった芸能となるとこの有力者は己が好む道を高貴なものにみせる欲望が出来する。

あんまりと言えばあんまりである。

不昧公を語る、と言うことは道具茶を語る、という事なんだなぁ…。