不昧公と茶の湯3 明治の雲州流

さて、明治初頭の松江の話。

明治維新による解放は、世の中を一変させた。
当初の混乱期がどんなものであったかは分らぬが、一応ある時期を経過し、多少安定をとりもどすにつれ、いろんな文化への志向も向いてきて、茶の湯なども行われる機運になる。
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そして、その師匠になった人には、旧武家で嗜みのあった人もあったろうが、瓦解で職を失ったお茶頭方があったはずだ。

やはり一時的に茶は廃れ、しばらくしてから復活したらしい。

ところで、そのお茶頭が教えた「お流儀」の点前というものが、どのようなものであったか、即ち、一連の基準をもったお点前であったかというに、その後の成り行きから判ずると、どうもまちまちなものだったらしい。

しかし、品質はイマイチだったらしい。

明治十八、九年ごろのこととあるが、雜賀町の徳専寺の住職、織部南岳によって、お流儀を集大成するという意図で「釜日会」というのを組織し「茶道不昧流伝習所」という看板を掲げ、師には為石九方を招いた。
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私の知見では、茶の湯は明治十一〜二年頃に復興している。
その品質が悪いことが判明し、共通化の試みが、八年後ぐらいに開始されたのだろう。

こうした風になったことは明治初年の空白時代がはさまったためもあろうけれど、もし不昧公が雲州流の立派を敢えてし、宗家というものを決めておいたなら、規準の収りが成り立っていて、こんな状況には成らなかったかも知れないし、また一時乱れたにしても、建て直しは容易であったろうと考えられ、一種の感慨なしとしない。

幕末から明治の茶の湯の流れを知っていると、どうしても「茶道家元の没落」という視点でのみ見てしまうが、流儀の保存という意味では、「あった方が良かった」のか…。

…この視点はなかったなぁ。辛酸は舐めそうだけど。