幻の茶室転合庵6 転合庵の論争

「伏見転合庵之記」は、小堀家の家伝書であるが、家伝書でしかない。つまり誰も知らない資料である。

そこで:

私はこの転合庵茶室が、余りにも世間から誤解されているのを憂い、これを茶道界に紹介することは、多少なりとも斯界に卑益することになろうかと思い、止むに止まれぬ気持で筆を採り、「転合庵論考」と題して、昭和十三年五月号の「茶道月報」へ、つづいて同九月号へ「続転合庵論考」を発表した。

んで、その反応は:

いかに遠州といえども、このような奇抜な茶室を作る訳がない。
これは後世何人かによって捏造された物であろう──と思われた人もあったようである。
(略)
翌昭和十四年「茶道月報」新年号で、松山吟松庵氏が「をだまき草」と題して「転
合庵論考」を反駁された。
松山吟松庵氏は、(略)当時小堀(宗明)家の顧問をしておられた。

松山吟松庵は茶道四祖伝書の現代語訳をした人。小堀宗明は遠州流11代目。
著者小堀宗通は小堀遠州流15代目なので、二つの遠州流の代理戦争の様相を体してしまったわけか。

吟松庵の反論はこう。

「転合庵は四帖半也」も転合庵中の茶室は四帖半なりの義と心得て始めて差支のな
い事となるのである。かう極めてさて再び松屋の図に引合すと、長四帖と書入れたのが二タ間(略)
簀子天井に成つてゐる長四帖には、向板の這入つた釣棚つきの半畳が付いてゐる。
(略)
此の半畳は今の台目畳であつて、(略)

松屋会記と桜山一有筆記は同じ四畳半を語っていて、「伏見転合庵之記」はそれに矛盾している、というものである。

著者の反論は

あくまでも、「桜山一有筆記」の「四帖半の茶室」は四帖半、
松屋会記」の「長四帖」は長四帖で、両者全く別個のものである。

昭和十三年、小堀宗通氏は26才。まずは若すぎた。当時の当代である宗忠氏が発表したならまだしも、である。


小堀遠州流の力も相当弱かったのではないか。なにせ12代宗舟は落魄し高谷宗範の世話になって関西で客死したくらいだ。

やる気になって復興を志した若宗匠の宗通が、自家に残っていた遠州伝書を公開しただけで、本家の顧問から打たれまくる。

そういう対立があって、戦後小堀遠州流は遠州流から独立したのだろう。

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20150606