幻の茶室転合庵7 堀口捨己氏の「二つの転合庵」

この論争において、堀口捨己は以下の様な説をたてた。

小堀遠州の転合庵は伏見に造られた遠州晩年の茶室として、世に有名であるが、尚
此外に転合庵が別にあった。
それは江州小室の小堀邸にあるものである。

確かに別の茶室に同じ名前を付けちゃいけない理由はない。

氏の説によると、寛永十一年頃、遠州は何やら将軍家光の機嫌を損じたことがあるらしく、一家全体が非常に心痛したそうである。
その理由は明らかでないが、出典とするところは、里井治兵衛自休の「年月記」(小堀宗明氏蔵)である。

長いので要約するが、遠州は家光の機嫌を取るために三年も江戸に篭りきりになり、父の
三十三回忌にも戻れなかった。機嫌が直ったのを記念して、伏見に戻り、転合庵を造営し、茶室開きをした、というものである。

しかしながら、よく考えてみると、この「年月記」には、幾多の不審な個所が見出される。第一に遠州がそれほど重大な不始末を仕出かした、それは一体何であろうか。

ここから著者の、徳川実記などとの格闘が始まる。

遠州は別段不興は買っていないようだし、むしろ家光と懇意な形跡ばかり出てくる。

里井治兵衛自休なる人物は、一体何を根拠に、遠州が将軍の不興を蒙り、足掛け三年の江戸詰などという、根も葉もない事実無根の遠州を誹謗するような記事を書き残したのであろうか。

小堀遠州流の家伝書を公開したところ、本家の顧問に次いで、有名茶道研究家が、公開資料どころか遠州流本家の家伝書を使い反論しにきたのだから、著者にとってみれば「本家が潰しに来た!」ってな気分だったろう。

仲悪いなぁ、この二家…