茶道文化論集3 足利義教

足利義政の父、足利義教の茶。

その父である足利義満の頃はまだ将軍家の茶に関する記述がほとんどないので、義教の時代に御所でもお茶が盛んになったのだろうと著者はいう。

永享九年に後花園天皇が花御所に行幸された。
応永十五年の例にならい、週日にわたって、歓待申しあげた。
この御座所の御湯殿の上の間には、茶道具がそなえられた。
それを列挙すると
御硯(蒔絵)、御火鉢(蒔絵)、御茶の湯棚、金の御建盞(台銀)、御茶器(蒔絵)、御茶筅、御茶杓(象牙)
一 御盆にすはる 銀の御鵜飼茶碗(台蒔絵)、金御湯盞(台銀) 
一 御盆にすはる 銀御茶碗二(台蒔絵)
一 御盆にすはる 御食籠一対(蒔絵)、御昆布の箱(蒔絵)、なんりやうのさじ一、御釜(銀)、御風炉(胡銅)、御水指(胡銅)、御杓立(胡銅)、御柄杓、御火箸一膳、かくれが(胡銅)、御水すて(胡銅)御はんぞう手洗(蒔絵)、島、わりご、作り物、折、御盃の台などあまたをかる。
  (室町殿行幸記)
とみえる。
(略)
ここで茶湯棚と見えるのは台子だろうし、その他の机卓や板が置かれて道具類が並べられたと思われる。
(略)

御茶湯棚が台子を示すかは本記述でははっきりしないと思う。
なぜなら、この御茶湯棚に道具が配置されたかどうかわからないからである。
記述上は三つの盆に道具が配置されているだけに過ぎない。

それにしても三番目の盆はいくらなんでも道具が置かれすぎなんではなかろうか?

ここで茶器が蒔絵だったというのは注意されるべきだろう。
かの禁輪寺茶入が後醍醐天皇の勅作だといわれるが、当代では茶器の使用があったことが知れるのである。

もっと重要な事がある。

唐物茶入でなく、蒔絵の茶器が置いてあるということは、すでに「和漢のさかいをまぎらわ」し始めていることを意味するのではないか。

そして永亨9年は村田珠光はまだちびっこなのである。