茶道文化論集6 義政の茶

義政が東山山荘を構えてこれに移ったのは、文明十五年(一四八三)のことで、かの応仁の乱(一四六七〜一四七七)後だった。
ところで能阿弥が大和の長谷寺で客死したのは、文明三年(一四七一)である。
能阿弥は歴代の将軍に仕えており、その動静はかなり明らかで、応仁の乱が勃発したので京都から逃れたらしい。
彼が東山山荘の義政に、珠光を推せんしたというのは、そのいずれかにウソがある。

なるほど。能阿弥は東山山荘造営の頃には死んでたわけね。

すると南坊録などが説く、能阿弥由来の茶の湯と珠光由来のお茶が利休に合流する説も、無理があるってことね。