茶道文化論集8 腹さすり布袋

腹摩布袋の絵は、南宋の画家牧渓の筆で、同じく禅僧の簡翁居敬の賛がある。
足利将軍家におさまった舶来品で、東山名物となったものである。

というわけで腹さすり布袋の来歴に関して。

ところで、牧渓や簡翁和尚の落款印のほかに、図に「王のいん」とあるのが将軍家の印、「これ壱す」とあるのが勅印である。
(略)
天王寺屋宗及は、永祿十年(一五六七)十二月二十五日、堺の大和屋正通の茶会ではじめてこれの眼福を得、その拝見記に書きとめたというわけである。
(略)
ところで、『山上宗二記』を見ると、この絵は堺の万代屋宗安の所蔵という。
大和屋から宗安に譲ったのである。
(略)
この布袋絵は、ここで秀吉に召されたようである。
そののち、元和元年(一六一五)の大坂落城のさい焼失したらしい。
当時、織田有楽が宗及の息子の津田宗凡に大坂落城のさいに焼けた道具の名を語っているが、そこに布袋絵があげられているからである。

腹さすり布袋は将軍家から出、大和屋→万代屋→豊臣家と渡り、灰燼に帰したという。

牧渓の腹さすり布袋絵は、将軍家の印が捺されているし外題は能阿弥の筆だというのだから、東山名物だったことに間違いはない。
ところで、これを立証する確実な史料が他にある。
東山時代の公卿学者として有名な三条西実隆の日記に見える。
実隆公記』の明応七年(一四九八)四月二十六日の条に

半身布袋 牧渓筆簡翁賛 武家累代重宝、号百貫布袋 俗号腹摩布袋 三幅一対之本尊也、
土蔵志乃者可沽却乃由申之、内々申入乃処、被召置之、代物弐千二百疋、玄清媒介之間、再往問答了。

だが、その五十年前には将軍家から志野家に入質され、流れそうになっていたという。

こういった将軍家の困窮→入質が、御物の流出に一役買ったと著者はいう。
…そうかもしれない。


ところで、腹さすり布袋に関しては九国が所有していてe-国宝のサイトで、拡大図が見れる。

http://www.emuseum.jp/detail/100002/000/000?mode=simple&d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E5%B8%83%E8%A2%8B&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=1&num=2

落款も所蔵印も見当たらないのだが…これは津田宗及が見たそれと同じものなんだろうか?