茶道文化論集9 戦国大名と堺

本書の「戦国大名と堺」が、堺の興亡について判り易い。

天文元年(一五三二)、細川晴元はその寵権臣の三好元長を誅罰するため、縁者の本願寺証如上人に請い、その一向一揆の武力をかりて元長を堺の顕本寺に追い込んで自刃せしめた。この一向一揆の蜂起に見習い、なお信者の元長が宗門の顕本寺で殺害されたのを怒って京都町人の法華衆(法華宗門徒)が蹶起、山科の本願寺を焼掠した。
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この宗教戦争は、法華衆が増長して宗論などを叡山に挑んだことで叡山門徒が激怒、これを恐れて公家や将軍家が法華寺院を京都から追放したことで治まった。

本願寺はあいかわらずろくなことしない。法華も法華だが。

堺は京都追放の法華宗本山をうけ入れた。
すでに宗教戦争の愚を悟り、信教は問わずに仲良く商売するとの「信教の自由」を打ち出したのである。

京の法華衆は富裕層だから、京から堺への資本流出的なこともあったのかもしんない。

港町の特性もあり、なお『信教の自由』が徹底していたため、ザビエルの来町に始まるキリシタンが堺にも根づき、日比屋了慶らの有力町人を信者とすることができた。
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なお、堺は本願寺が京都山科を焼かれて大坂石山御坊を本山としたのに恵まれた。
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なお、堺は鉄砲の伝来に恵まれた。

信長によって自治が失われて、本願寺がアレになって更に豊臣家がアレになった上焼き払われ、鉄砲技術も流失し/必要が無くなったら、そりゃ堺は衰退するわな。