茶道文化論集10 名物狩り

永禄十一年(一五六八)、信長は入京と同時に、畿内の町々に屋銭(矢銭)を課した。
(略)
堺には二万貫が課せられたが、堺町人はこれを拒否した。
(略)
たびかさなる堺の反抗に憤激し、堺攻略を命令した。
(略)
かくて
二月初め、堺は降伏するのである。

そういえば時系列を把握していなかった。

堺戦役は、鉄砲の調達という戦略的な狙いと、三好家の征伐と、石山本願寺周辺の切り崩しを兼ねた、なかなか重要な戦争である。

信長は名物を強要した。
(略)
しかしすべてを信長は求めようとしたろうか。
東山時代からは時代もたった。
美や好みの変遷もある。とくに茶数寄の成立があった。
信長は「目利き」を擁して、しかも世評の高くなったものをねらうという選択もあったに違いない。
しかも代価を払うのである。
このような観点に立つとき、信長が名物狩りという、いせっい採集を強行したことにやや疑問を感ずる。
田舎からほとんど無一物で上洛してきたので、急速に名物所蔵者となるに必要な手段としてはよい方法である。
しかし、第一等の名品を所蔵者がたやすく提出するはずがない。
(略)
ところで、権力者信長のもとには、ぞくぞくと名物が集まってくるのである。
欲しいものは強制しなくとも得られるのである。
かれこれ勘案すると、なにかの祝賀の際、かなり多数の名物が町人から信長に進献
せられたことが、名物狩りなどと誤り伝わったといえるかもしれない。

著者は「名物狩り」という程の組織的な狩りが行われた事に関しては否定的である。

しかし、能動的に狩らなくても、戦に敗けた堺の商人たちが、信長の心象を良くするために献上したり、根回しの上で半ば強制的に買い上げたりするのはどうしようもない。


また、著者は「なんで信長が名物狩りしなくてはいけなかったか」に関して考察していない。

当時の社交が茶の湯にシフトしている状況で、町人よりもグレードの低い道具しか持っていなくては、お話にならんからじゃないか。

そして、この時期、名物茶道具は舶来伝来するものであったものであって、まだ新たに作り出すものではない。
名物道具のプールが足利家ではなく、堺や京の町人の方にあるなら、そこから名物を吸い上げるしかない。

いくら頑張って道具を集めても、町人の方がいい道具を持っていたんじゃその町人すら招けない。

いい道具持ち…大商人ほど招いてもらえないのでは町人も困る。

道具を権力者に委譲するのは、町人にとってもメリットがあったんだと思う。