茶道文化論集11 戦国大名と名器欲
大名のアクセサリーは、貴族を示す五位の朝臣の位階である。国守の格である。
将軍家が公家に執申して薄墨紙の口宣案(官位記)を授かる。
五位相当の官職に任ぜられ、これを称号とすることになる。
これは戦国時代だが、大きな威力となった。
ということで、戦国大名のいろんな権力誇示の方法が紹介される。
んで
実は足利将軍家が東山山荘で創めたという伝承に乗って茶湯が流行した。
(略)
大小名や有力町人がその権欲ないしは富力を誇示するアクセサリーとするのである。
茶湯はその一環だという。
…これはどうだろう?
佐々木道誉は義政より100年以上前の人間である。
道誉は足利尊氏に憧れて闘茶をやったわけではあるまい。
闘茶の流行は茶の湯とは別という事だろうか。
市井での茶の湯の流行の起点を東山に置くと、「いつ東山で茶ははじまったか」になって、市井で流行してたのが入って来た…という無限ループに陥るのだが…。
千鳥香炉は東山名物である。
大名物唐物青磁香炉が二つ現存する。
連歌師宗祇がこれを得、「歌道のふるさと吾妻」の歴遊の途次に駿河今川氏に譲った。
今川義元の遺児の氏真はこれを信長に贈って家名を存続したともいわれる。
まぁ御物が地下に。地下から(富裕な)周辺国にという流れは判るし、その動きが応仁の乱で盛んになったのは事実だろう。
そういう意味で東山殿は茶の湯の全国展開に寄与していたとは思うのだが。
家康は戦功の賞として、また大小名取立てに際して刀剣と茶器を授けた。
そもそも戦功の証は「論功の場に存在したものを渡す」ので、戦場でなら刀剣だし、帰城後なら茶器宝物が渡せるというだけの話。
手元に刀がなかったタイミングで褒美ださなきゃならなかったので、饅頭貰った奴だっているのである。
平和になって加増とかはそうそう在り得ない中で、下賜したり献上し返したりするのは、権力者とその配下の間での忠誠心トークンの交換の話でしか無い。
この文脈で評価して欲しい物は「茶器が城一つに値する的な言われ様を後世しているが、戦国大名は加増より茶器を望む例があったか?」である。
その評価がない以上、そりゃ金持ちはなんだって良いもの手に入れたがるでしょうよ、でしかない。