茶道文化論集12 四聖坊

松屋会記にもたびたび出てくる四聖坊。
本書は四聖坊をくわしく解説してくれる。

東大寺四聖坊は、東大寺の寺中(禅宗では塔頭)であった。
東大寺では、門跡・院家に次ぐ寺格を与えられ、近世には坊領二百二石を宛てられた華厳宗学侶方の筆頭の寺坊である。

詳細引用は省くが、東大寺の学僧組織の中で、事務方末端を担当する、かなり現場よりの組織が、半ば独立したもの、だったようだ。

四聖坊は、門跡・院家ではなく、平の諸院諸坊であった。
しかし、その歴代の坊主は世才に長けていたらしく、尋尊大僧正の註記が記された頃には、有徳者(富裕者)との評判があった。(『大乗院自社雑事記』長禄三年二月二十日条)

現場より、ということは、東大寺の金回りの一部を担っていた、役得があった、ということだろう。

天文のころ、富力があり、また実力のあったものは、僧俗を問わず、当時、新流行の茶湯を愛好した。
茶湯は社交のためのものでもあった。
(略)
四聖坊は、宗助・英助の両代が、茶道成立期の天文年間から桃山時代に当たっている。
宗助以来、牧渓をはじめとする宋元の名画をはじめ、名物の道具類が多く集められた。
それらは四聖坊名物として世に知られた。
その名物は、質といい量といい、奈良では随一だったし、堺や京都の町人らの及ぶところではなかった。

それにしても、どんだけ役得があったんだろう?

坊領二百二石ってのは、江戸時代の下級旗本クラスである。
赤貧ってことはないが、こんなんで名物道具を収集できる筈はない。

まぁ役得…不正規所得ってのは、記録には残らないからなぁ。