茶道文化論集13 珠光と一休

なお、珠光は一休和尚から印可の証として圜(円)悟禅師の墨蹟を授与されたという説も行われる。
つまり、茶湯は東山殿義政の東山山荘において、町衆の珠光が禅味と茶味とを塩梅して発祥せしめたもの、その禅味は一休和尚から授かったと理解される。
(略)
しかし、これが史実か否かということには論議がおこる。
これを実証する確実な史料がないことから、これを否定することもたやすいが、また史料がないことで、その蓋然性を採りあげて肯定することもできる。

ということで、珠光の一休への参禅伝説について。

ところで、私はいわゆる開祖伝説と見なし、これらを史実という点では否定するが、珠光において茶湯精神が芽ばえたという説なら妥当と考える。

著者は、事実としてそれがあったか、という点に関しては否定的である。
私もそうだ。

ところで、和尚が没して、その十年忌に当たる延徳三年(一四九一)、珠光は真珠庵開設にさいして五十文、同十三年忌の明応二年(一四九三)に一貫文を奉加している。
この珠光は茶数寄の珠光と推定される。

でも珠光と一休は、まったく関係なくもないのか…。

でも、生前の一休と珠光が知合いだったら、最初の献金が50文で、次の献金が一貫(1000文)ってことはないよね。
一休死後の大徳寺に縁があった、という方が正しいんじゃないか。

ところで、珠光の名がはじめてしれるのは応仁二年のことで、奈良在住の珠光が公家御服司の公卿山科家から大口(袴)を購入したという『山科家礼記』の記事である。
珠光が大乱を避けて郷里の奈良に疎開したらしい。
(略)
ともかく、珠光は応仁の大乱以前、京都において多少は名の知られた人物だったことがわかる。
しかも珠光という出家名を称している。
そのうえ、下京に在住したといわれるが、やがてその一族が四条で奈良屋を称し、富商となったのが知られるから、珠光も奈良から上洛してきた商人として成功したのかもしれないのである。

そうだよなぁ。珠光名物の存在を考えたら、お金持ちでない筈がないよな…。

珠光表装と言われる鷺の絵だって、趣味が侘び趣味なだけであって、ブツ自体は高価そうだもん。

でも結局結論が出せるほどの情報ってないのかねぇ?