茶道文化論集15 大徳寺と堺衆

古岳和尚は堺を愛した。
舳松などの松原に、洛中より以上に“市中の隠居”の風情を掬したことかもしれない。

ということで、大徳寺と堺衆の関係について。

大林和尚は紹鴎や天王寺屋一族に仰がれる。
今井宗久千宗易(利休)も参叩する。
(略)
町人らは、その参叩の師から法諱道号の頌偈を授かるほか、禅院に参入して禅話をうけ、なお茶器などの命銘を請うてその頌説を授かり、また禅機画の解義を請うなどのことで、禅味酌量の便を得ることになったのである。
やがて和尚らが有力町人宅に臨んで茶湯を饗せられるし、和尚が茶湯に町人を招くことになる。

南宗寺をテコに、堺の有力町人が大徳寺の禅に帰依した、というのは否定しない。
だが、ここで描かれている大徳寺と堺の茶の湯の交流は、ほとんど根拠がないんじゃないか?
堺興隆の時期に、大徳寺の禅僧から茶器の銘をもらったりした例ってあったんかいな?
その辺の証明なしにこーゆー説明はよろしくないのではないか。

天正元年九月、古渓和尚は大徳寺住持第一一七世の綸命を拝した。
(略)
この古渓和尚の「入山式祝儀奉加帳写し」が高桐院に残っている。
(略)
堺衆の奉加が圧倒的で、なかんずく千宗易・同夫人と宗易弟の奈良屋宗巴の宗易一族の奉加が抜群である。

堺の全盛期に、有力町人が茶の湯にはまり、禅に帰依したのは「そーゆー遊びにうつつをぬかせるくらい経済力ができた」というだけの話。

大徳寺がそういう有力町人に優しかったのは、大檀那に尻を差し出しただけの話。

堺が衰退した後でも、大徳寺が茶人に阿っているのは、尻を差し出した思い出が甘美だっただけのこと。

ただ、そのことが茶人にも、大徳寺にも、どっちにとっても得だったから、今も続いているってことだと思うわけよ。