茶道文化論集14 宗珠
大永六年(一五二六)秋のことだが、連歌師宗長はその手記に、
下京茶湯とて、此比、数奇などいひて、四畳半敷・六畳敷、をの/\興行、宗珠さし入門に大なる松有、杉あり、垣のうち清く、蔦落葉五葉六葉、色濃きを見て、
今朝や夜の嵐をひろふはつ紅葉
と記している。
(略)
四畳半・六畳敷の茶湯座敷をそれぞれ設け、茶湯を数奇と称して下京の町衆らが楽しんだという。
という、良く聞くお話。
が、著者の指摘で目から鱗。
しかし、ここで注意すべきことは、宗珠がその茶湯工夫を宣揚するため、強くこれを亡夫珠光の遺風として掲げたのではないかということである。
!!!!!!!!
そうか。「このごろ数寄などといって」だもんな。
- 珠光の茶の湯の流行を示す、珠光時代のリアルタイム史料があった筈。
- 珠光の頃から流行ってたら宗珠の茶の湯の流行を「このごろ」とは言わない。
- それにしても宗珠の茶の湯の流行を、「東山殿」「珠光」にリンクさせる筈
だもんな。
宗珠の茶の湯が人気→箔付けしたい→じゃあ将軍家と関係づけるとか→でも宗珠が将軍家出入りである、とは言えない。そうじゃないから→親父を凄い人に設定して、その子だから引き継いだだけで、ただの浮薄な流行じゃないんですよ、という設定を作ったって事か!
こんな中二病的な設定を、茶の湯の創始期からだっらだら500年近く引き継いできたんだったとしたら、南坊録が偽書であるとかないとか、ほんとどうでもよくなってくるなぁ。