茶道文化論集17 三都市の一体化

ここで三都市というのは、京都と奈良、それに和泉の堺のことである。

ということで畿内の主要三都市のお話。大坂はまだ石山寺でしかなかった頃のお話ね。

とはいえ、なお京都が中心であったといいたい。
これは首都たる伝統の然らしめるところである。
(略)
とくに奈良の京都に対する場合など、茶湯の開山珠光がその名誉を得たのは、かれが上洛したことにあることはいうまでもない。
(略)
紹鴎の上洛および在住は、決して文化的な茶湯修練の為のみではなかったといいたい。
その在京できたことは、商人だったからであろうと思っている。
納屋衆の紹鴎は、その富力を利用しての在京であった。
茶匠としての独立は、いまだ環境が熟していないと思われるからである。

奈良、堺の商人は、成り上がって文化首都?京都で有名になるのがステータスだった、と言いたい模様。

辻玄哉は、これを近世の茶道書では、例えば『茶人系譜』などは堺の町人としている。
しかし、天文から天正にわたる『天王寺屋会記』や『松屋会記』などの当時の史料では京都の町人として見えている。
(略)
実は有力町人などは京都・堺・奈良に本支店のごときを経営していたのがわかる。
これで町人らの往来や交流がさかんになり、ついには住地があいまいになる。

その動きの中で、住民の交流が起き、交流のツールたる茶の湯が広まった、という趣旨。
特に異論はない。

この三都市の富力を握った武将が当代に現れた。松永久秀である。
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堺町人の若狭屋宗可はその茶堂となっている。
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久秀の三都市支配など、もとより三都市町人の交流のうえに乗ったものであろう。
しかし、その久秀の都市支配というものが、強力なものでなかったことを指摘したい。

ここはダウト、かなぁ。

商人から常時徴税することは、江戸幕府ですらできなかった。
松永が堺に矢銭を課したとは聞いていないし。

そもそも、信長が三好三人衆松永久秀を撃破し、京に入ってやったことは「関所の撤廃」である。

三都市支配して富力を吸い上げられるなら、関所はいらないし、関所収入当てにしてる段階で、都市が支配できていないということだから。


なお、この時代の「茶堂」は多分に道具商も兼ねてたんだろうなぁ。
でなきゃ大商人がやりたがる仕事でもないもんな。