茶道文化論集18 北野大茶会と奈良衆
北野大茶会は太閤秀吉が天正十五年(一五八七)十月に北野神社境内において、全国の茶人および道具を会した一世の大茶湯であった。
この茶会には、大和大納言豊臣秀家が総奉行として臨んだので、その領民である奈良衆は肩身も広く、僧俗合わせて三六人が喜びいさんで、それぞれ道具を持参して参上した。
ということで、北野大茶会の奈良衆の面子について。
奈良茶人の雄は松屋久政である。
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東大寺の四聖坊・観音院、それに大乗院門跡の杢と称名寺・高坊らが僧衆である。
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社人として唯一人、拝殿五郎左衛門がある。
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武家としては中坊源五が唯一人である。
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以上を除いた他が町人である。
松屋久政・久好父子のほか遁世者流の侘茶人として子守道六が知られる。
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坂東屋は餅飯殿郷(町)の有力町人で当主の常閑は北野大茶会に参じている。
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北野大茶会に参じた有力茶人は、記述の坂東屋常閑にならんで大鋸屋道賀、絹屋寿閑、鍋谷宗立、薬屋宗芳、木津屋カンショウ、大東等旧(海老屋か)、帯屋宗栖、清水宗仙、大紅屋(大黒屋)紹斗、関才次郎(のち正佐か)、紺屋宗有、薩摩屋有俊がある。
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なお、鋳物屋久怡、仏師源次、畳屋善四郎、表具屋慶俊、後藤与太郎はいわゆる職人である。
有力僧侶と神人、豪商。一応侘茶人/職人もいるが、大半はお金持ちの面子である。
ところで、参会者はそれぞれ二畳敷(薄べり)の茶席をかざった。
気になるのは、上記のゴジャースな面子が、持参の名物を、あてがわれた二畳敷に飾ったってことである。
四聖坊肩衝とかさ、松屋肩衝とかさ、どう考えても広間の茶の道具なわけじゃない?
彼らが嬉々としてそれをしたのなら、道具のカテゴライズとか、格に対する考え方とかが、現代人が思っているほど厳しくなかったのかな?という疑問が有る。
また、利休が秀吉とタッグを組んでからせいぜい五年で、「全国の茶人集まれ。二畳敷の野点席でお茶やりますよ」的なイベントを実施して、総スカン食らわないだけ小間のお茶が許容されてた、というのもなんか凄い気がする。