茶道文化論集20 闘茶
茶会は茶の集会、寄合(よりあい)である。
一六世紀に茶数寄の座敷茶湯が発生するまでは、茶会といえば闘茶の会だった。
(略)
足利尊氏は将軍になると、その施政方針を武家衆に徹底させるため『建武式目』を発布した。その中で連歌会や茶寄合をいましめている。
というわけで室町初期の闘茶の話。
そのころ、『バサラ』という流行語ができた。
(略)
(略)異国本朝ノ重宝ヲ集メ、百座ノ粧ヲシテ、皆曲碌*1ノ上ニ豹皮ヲ布キ、思々ノ段子金襴ヲ裁キテ、四主頭ノ座ニ列ヲナシテ並居タレバ(略)
(略)
しかし、右の文中で綺羅星のごとく居並ぶ大名たちを叙して四主頭と形容しているのが注意をひく。
これは禅院の茶礼を知っていて記したともいえるし、茶会が禅院の茶礼をまねたものだということを示している。
四主頭はわかりやすくいえば四人の正客ということである。
現在、たとえば毎年四月に建仁寺で四頭式茶会が行われているが、これが四主頭の茶会であり、禅院の茶礼の伝統を存続しているのである。
禅の茶礼が広間の茶になったわけではなく、闘茶こそ禅の茶礼だった、ということか。
椅子式の四頭茶会。
確かにこっちの方が禅の茶礼に近そうではある。
でも「博打らんちき起源です」とは山上宗二も言いにくかったってことね。
しかし、茶湯が闘茶起源であったとして、「異国本朝ノ重宝」を集めた段階で、和漢の境がずいぶんまぎれていると思うのだがいかがなものか。
*1:旁のみ