茶道文化論集21 古市氏と淋間茶湯

古市播磨といえば、茶湯界では少しく名がある。
東山時代、茶湯開山の珠光のワキ役として登場する。
珠光の弟子としてうたわれるのだが、むしろ珠光のパトロンというべき関係にあった。

そういえば古市播磨詳しくは知んないな…。

古市播磨が珠光の弟子といわれたのは、「心の師とはなれ、心を師とせざれ」という、珠光の茶湯精神の伝授をうけたことが知られたためだった。
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なお珠光名物道具では、後世奈良の松屋が珠光茶湯のシンボルとして誇った白鷺絵を播磨が伝えた。

でもまあこのくらいは知っている。

古市播磨には胤仙と澄胤の親子がある。
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ところで、古市氏が淋間茶湯を催したのは応仁の乱の頃のことだった。
これは澄胤のことらしく考えられるが、実は兄の胤栄の代のことだった。
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なお古市には興福寺大乗院門跡の経覚大僧正が故胤仙の時代から隠居していたが、古市氏は大乗院の配下の衆徒だから、これに忠勤した。
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経覚は経済不如意となってくるし、古市氏は新興の勢いだった。
ここで文化力のある貴族と、経済力のある新興武士との協同遊芸がはじまった。
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古市氏は一族若党らに盆風流をさせて経覚の宿所に練りこませたり、また経覚を見物場所に招いたりした。
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とくに風呂屋の小屋がけをして亭を設けた。
盆風流に刺激され、また風呂あがりの茶宴・酒宴などに卿をそえる工夫をしたのである。それが古市の林間茶湯だった。

つまり、古市氏は地方で隆盛をほこった新興武士勢力で、応仁の乱疎開してきた文化人などをパトロンし、田舎を盛り上げていた、ということらしい。

逆に、自力の文化力があったわけではないらしい…。

胤栄は経覚をブレインに、いろいろ遊んだだけで、澄胤も文化の担い手、というわけでなく、珠光のパトロンに過ぎなかったというのが著者の解釈。

なるほど。

でも前提で「心の文」を解釈すると、「和漢の境をまぎらわし」は、「このパトロンさん成金趣味すぎるわー。もう少し取合せとかをですね…」とかのパトロンへのいらだちが感じられてしまうんですが…いかがなもんですかね?