茶道文化論集22 天文時代の茶湯

座敷飾りは東山時代に発達した将軍殿中飾りにならった。
六畳・四畳半の座敷ではその簡約化がくふうされた。
そこに侘び茶の芽ばえがある。
台子に対して板や棚、天目に対して茶碗の使用が始まった。

ということで、利休以前の「茶湯」。

著者は東山→町人のお茶、という持論のようなので、四畳半に東山の飾りを持ち込んだために略式化が起き、それが侘びに繋がったという考え。

ある程度納得は出来る。
台子を長板に変えたからどうだ?という気もするが。

道具の主王は茶壷とされていた時代である。茶入あるいは掛物が床の発達で漸次珍重されてくるが「掛物第一」ないし「墨蹟が眼目」の趣向は利休以後のこととなる。
この掛物の具体的使用例を天文十七年(一五四八)から永禄九年(一五六六)に至る『津田宗達他会記』で統計してみると、「絵 一〇一、墨蹟 六八、定家色紙 二、記載なし 二二七、不明 三四」という数字が得られた。
絵に対して墨蹟の使用回数は少ない

私も松屋会記で同様の調査をしたことがある。

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20091220

せっかくだから利休時代以後も調査した方がよかったのに…。
そうすれば、利休時代にも「墨蹟第一」でなかったことが判るし、慶長時代でもそうでもない、と判るはずなんだが。

ただ:

「囲い」や「居座敷」の利用さえあった茶座敷では、掛物の使用が制約されたことでもあろう。

という指摘は納得。

確かに床がなければ掛け物はないよな…。