茶道文化論集25 権威
利休は織田信長に召された際、その茶の湯の「伝ハ紹鴎ニ得申、道ハ珠光ニ得申」と応えたと言われる(随流斎延紙ノ書)。
利休は、その茶の権威を伝統に求め、その創意くふうも珠光に発するところとしていたのである。
元禄の世の子孫の発言だけに、これは信用できないが:
信長に召されてはその身を東山将軍義政に仕えたといわれる珠光になぞらえたろう。
東山文化の憧憬の盛んな当代の時潮にもよるものでもあった(永島「珠光と利休」立命館文学一〇一)
珠光顕彰の動機が、自らが権力者の茶堂になったことの正当化だとしたら、すごく納得できる。最初に顕彰したのが山上宗二あたりなことも。
もちろん、豊臣秀吉のもとで天下一宗匠の名声をあげた利休の茶は、伝統を超克するものとなったといってよい。
「当世の茶湯とハ、宗易と云数寄者、むかしのくどきことを除、手まへかるく、手数すくなく、かんなる所ヲ本とす。茶わんにても、こ(濃)き・うす(薄)きの替をかんようにたてつれバなり、座敷のひろ(広)き・せば(狭)きによらず左かまへなり、又道具ヲはこぶ事、ミな侘数寄の仕舞也、殊ニ茶のいき(息)ぬかすまじきため、ひしやく大にして一ひしやく立ル也」(僊林)といわれる。
最初の天下人となった秀吉が庇護している以上、利休は茶の改革になんの畏れもなく、そして珠光の権威も必要としなかったろう。
そういう意味で山上宗二が茶の改革より権威を求めて珠光を顕彰したのは理解できる。
なお、僊林のいう「道具を運ぶ事皆侘び数寄の仕舞なり」は、座敷飾りの衰退を示していて興味深い。