茶道文化論集24 点前の源流

なお当代、茶は寺院法会のさいなど、役僧が渇を癒すために準備される例だった。
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この点茶風景は一三五一年製作と伝えられる『慕帰絵』、あるいは『福富草子』などで知られる。
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ということで東山以前の、寺でのお茶の話。

貴族寺院の有職書の『海人藻芥』(一四二〇年)には、「若人ノ人前ニテ茶持アツカヒ不知ハ無下也、大方可習知事也、建盞ニ茶一服入テ、湯ヲ半計入テ、茶筅ニテタテル時、タダフサト湯ノ音ノ聞ユル様ニタツルナリト阿伽井顕弁上人被申キサレバ同宿ドモノ茶タツル音ヲ聞ハ尤然可」としるされる。
当時は、茶を点てるのは少年の役目だったことが知れるし、点て方を知らぬのは恥だというのだから、飲茶の普及が知れる。

役僧が喉の乾いた人に運んだり、少年が点てるルールとか考えると、点前さんの地位は低い。というかお稚児趣味の一環じゃないかという疑いすらある。

「だからこそ亭主が点前をしるのがもてなしである」という考えもあろうが、飛躍/解離があるような気もする。

ところで、利休時代よりも百年以上前にお茶が流行っていたとしたら、茶道具って当然もっと自製していていいと思うんだ。特に建盞。

日本の窯業はこのニーズに応えられずに利休の時代まで来てしまった様に思う。
非常に不思議である。