茶道文化論集27 松屋久政の堺衆訪問

松屋会記』の天文十一年(一五四二)の条には、源三郎久政が堺衆から接待される茶会記だけが記載される。
その頭初が武野紹鴎の茶会である。
(略)
四月三日に久政ら三人の奈良衆が紹鴎の茶会に参じたのである。
次いで久政らは四日に天王寺宗達、五日に満田常庵、六日に油屋浄言、七日に薩摩屋宗忻、八日に妙印の道安、九日に北向道陳に参じた。奈良衆の堺への茶の旅といえるものだろう。
(略)
久政らは紹鴎茶会をまっさきに選んだ。

この面子が、当時の堺の名人達、ということになるのだろう。

なお、翌々十三年二月にも、久政は称名寺の恵遵坊を伴って堺に至り、十八日から二十五日まで連日、中一日おいて二十七日に千宗易の会に至るまで堺衆の茶会に参じている。

利休は翌々年の末席である。
利休十六才の時、わざわざ京まで行って会に参加した人の対応としては冷たすぎる。
つまり、京与四郎天文六年は、利休ではないどっかの与四郎ということだろう。

奈良衆の堺訪問は、珠光の顕彰に役立ったらしい。
(略)
久政は再び堺に赴いたが、称名寺の住職の恵遵坊を帯同したのが注目される。
堺衆の珠光追慕に応えるためか。あるいは奈良人であり称名寺ゆかりの珠光を堺衆に説くためであったろう。むしろ後者だといいたい。

珠光の伝説が、宗珠経由でひろまり、京都から堺に行ったのなら、もっと古くから語られていい。
堺への伝播が奈良の松屋経由であれば、山上宗二あたりが伝承を語り始めた理由もわかるというものだ。

しかも、松屋は珠光名物持ち。珠光の名をひろめるのは自分にとっても得。
動機もあるなぁ。