茶道文化論集34 開山墨蹟

文明十二年(一四八九)七月二日、東山山荘の足利義政は、同朋衆調阿弥に案内させて御持仏堂(東求堂)を見分した。その北の間には「開山国師墨蹟一対」が調阿弥の手で掛けられていたといわれる。
(略)
当代、五山禅林で開山国師といえば、夢窓国師と理解された。

ということで、「開山墨蹟」の開山が誰で、何時廃れたのか、と云う話。
夢窓国師なのか本当は大燈国師じゃないのか、という考察は省く。

やがて元禄以降、茶道の歴史が追求されてから、一部に開山墨蹟は円悟墨蹟だという所説が称せられるといういきさつである。茶祖珠光が顕彰されたことと関連する。

茶の湯の開山」珠光所持の墨蹟では?ということになり、円悟のことだという論調が一部にあった、ということらしい。

開山墨蹟は、なぜ、すたったのであろうか。
(略)
茶会では墨蹟第一主義が称えられ、前代の名物墨蹟は大名物として将軍家や大名が握ったのに対し、大徳寺物が墨蹟として町人らには珍重される。
(略)
ところで、開山墨蹟は忘れられた。大徳寺物ではなかったせいだし、茶湯は東山殿義政にはじまるという茶道史が理解されたから、その前代の夢窓国師の仰慕には至らなかったことだろう。

判り易い。

数が少ない横物大名物が将軍や大名や豪商に買い上げられた。
なのに「掛け物」が茶の湯に必須になった。
掛け物といえば大徳寺僧の一行書となった。

もう掛かることもない夢窓国師の墨蹟のことは忘れられた。

こういうことね。