茶道文化論集33 茶頭

時は移る。利休亡きあと、織部は茶湯の名人と称される。
秀吉の死去(一五九八)の前後である。
(略)
そこで、織部の茶湯三昧がはじまり、名人の称も得たが、武家に茶湯三昧が許される時流ではない。
関が原役(一六〇〇)、徳川幕府開府(一六〇三)と政局は動いた。
すでに織部・作介ともに徳川家康に属した。
そして、この難局を乗り越えた。
(略)
老境の織部は茶湯三昧、青年作介は武家官僚への道を歩んだ。

と、この織部に関する話に示唆的な話が含まれていたのでピックアップ。

もちろん、武家の茶湯三昧などは、隠居のうえで許されることである。
そして武家の茶頭には地下の専従者が起用されるし、政務への参画などは厳しく断たれた。

「政務への参画などは厳しく断たれた」の根拠がわからないが、ありそうな話ではあると思う。


ここで思い出されるのが春日局である。

家光の乳母でしかない女性が専横を極めた、という事に幕府はこりた。二度とそんな存在が出ないよう、将軍跡継ぎの乳児が乳母に親近感をもたないよう、授乳するときには乳母は覆面をさせられたのだという。

つまり、江戸時代の武士とは、何かにこりたらちゃんと再発防止策を立てる生き物だったということだ。


利休が商人なのに豊臣政権の中で政務に参与していた…のの再発防止を考え、茶堂が政務に参加できないよう、なにかしらの施策をしていてもおかしくないような気もする。

実際江戸時代の茶坊主で、政務に関与できた人間を私は知らないしな。