茶庭の話3

したがって少なくとも表千家の主要部は、建物も露地も嘉永年間ごろの模様を現在によく保持しているものといえる。

どうも各流派の家元の茶庭は、さほど古いものではない模様。

増築したり、木が枯れたり、いろんな事態で手直しするだろうし、その時代その時代の流行が反映されるだろうし…昔のまま生きた茶庭を伝えるのは難しいのだろうな。

そんな中で

露地も、寛永初期、この地に燕庵が移建された時、作庭されたものと考えられる。
庭石その他の石材は、おそらく昔のままであると思われる。
建物と庭がともに作られ、そのまま残る例は少ない。
特に茶室と露地の例はきわめてまれである。
燕庵の露地は、そもまれなるものの一つであって、露地としては
完成した形態をもっている。
この意味で燕庵の露地は最も重要なる遺構である。

本書では、燕庵を寛永の頃の遺構と推定している。

でもどうなんだろう?
幕末の頃、元治の兵火とやらで藪内家は焼け、再建されている。
再建されるだけならともかく、須弥蔵などがその際増設されているので、石の配置ふくめいろんな手が加わってそうなんだがなぁ。

実用するものだし、石の置き所とか変わってても今更判らないのが茶庭の難しさだと思う。