美術骨董品投資の秘訣9

この眼力、この直観力を身につけている者は学者や研究家ではなく、毎日真剣勝負をやつてきている商人の中に多く見出される。
これはある古書屋から聞いた話であるが、その古書屋が、客から預った刀剣を、丁度そこへ古本を探しに来た博物館の刀剣専門家に見せたら、長い時間かヽつて、その刀剣が折れたものを継いであるのを発見した。
ところが何日後かに遊びに来た刀剣商に示したら、さつと見て「これは折れていますね」と投げ出していつた、

折れ刀くらい判ってよ!とは思うが、そういう事はあるかもしれない。

学芸員とかは身銭は切らないもんな。痛い思いをしても、せいぜい予算を無駄づかいして展示できない作品を買ってしまった、という程度だもの。

また、大量のくず作品を見てもいないだろう。私も岡山の某刀剣商で、二束三文の刀を一杯見て、逆に勉強になったりしたが、そういうプロセスには欠けていそうだ。

ただ、こと刀にかけては「先人の鑑定をある程度優先する」ことがあって、本阿弥家の折紙を大事にしてしまう事がある。
ところが本阿弥家は相手の顔色見て「正宗ですね」的な鑑定をする事があったらしく、信頼性がイマイチだったりするのだが…。

茶道具でも「何々家旧蔵」はややヤバい気がする。モノの善し悪しより、来歴が優先される部分が茶の湯にはあるからなぁ…

美術骨董品の鑑定法ということも、結局実践であり身につけることであつて、言葉では伝えられないものであろうが、
これを二つに抽象してみると、その一つは、その美術骨董品と一体になることである。
毎日たくさんの本物を見ることである。
親しみを持ち、愛を持ち、その本物だけが持つ微妙な表情まで呑み込むのである。

本物を見慣れれば、偽物は見えてくる、という一貫した主張だが:

たヾ親しみ、呑み込む対象に贋せ物が混つていては困る。
いま私が、専門に扱つている浦上玉堂の画など、非常に特色があり、比較的鑑定は簡単であるが、これ迄出た数種類の玉堂画集に、沢山の贋せ物が混つているために、これで勉強する人は、どうしても玉堂の本質が呑み込めないのである。

世の中そうもいかないか。

小さい美術館だと志野とか見ると「これ、志野じゃないよね?」というものが展示されてる時があるしな。