利休の茶花4

『易ハりんとうと菊ハ嫌候韋 古花不知との義なり 殊ニ紅葉仕タルハ尚以嫌トナリ』
(略)
利休の、花材についての「好き」「きらい」を、松屋はその記録の中でつたえている。
(略)
りんどうとか、きくなどの花は、割に長期間にわたって、咲きつづけよう。
(略)
時の経過がはっきりしない。残花や、残彩は、時間的な推移の、不明瞭なものである。
いさぎよいものとは云えない。
そういったことから、『古花』すなわち、時間的経過をしていながら、それの明らかにならないものとか、『紅葉』してまでも、いさぎよくないものなどが、嫌われたのである。

松屋の語る利休は「季節感のない花」の嫌いな人である。判る。

果してこの理解が正しいのであろうか。この解釈で間違いないのだろうか。

どーでもいいがこの人の文は冗長で引用に困る。文字数稼ぎの必要が有るのか?

すでに見てきた、諸会記の中に、菊の挿花が、梅の十五回についで、第二位の十回も数えられる。
利休説とされるものと、利休の事実とには矛盾が見える。

いや…南方録の「会」をカウントするからそうなるので、そもそも怪しい資料をベースに考察するのが間違いなんじゃねーのかなー。