利休の茶花5

利休『朝顔の伝』は、彼の挿花に関しての説話の中で、もっとも有名なものである。

有名な朝顔の茶事から。

やはり記録から見ていこう。

六月二日 朝
南宗寺ヘ茶持参 集雲庵ノ深三畳カリテ
一 雪中上堂
(略)
一 籠ニアサカホ

これは南方録にみられるものである。
(略)
この会記には注意しなければならない点がある。それは、初座に、古林清茂(茂古林)の「雪中上堂」をかけ、後座になって、挿花をしていることであろう。
「南坊宛、利休居士茶湯秘伝書」(天正元年)には、『一、朝かほの茶の湯の事 初メ 花をいけ、後懸物をかけカフル事也、朝ガホ明日イケント思テ 宵カラ切候てイケテ置候ヘバ ツル ロクニイナヲル物也、ソレヲ生る也」
とみえる。この文章とはちがっていた。
朝顔がいけられる場合、つねに、初座とは限らないのを示すものである。
それと同時に、この茶の湯は、朝顔が、主ではなかったのを物語っている。

南方録の成立は、茶話指月集とほぼ同時で、南方録は茶話指月集のエピソードを入れずに作られている。
なので、朝顔茶の湯の扱いが普通でもしかたがない。
この茶会記はそれを示すものとも言える。

庭前に植っている樹木の花を、挿花してはいけないと云うのが、利休の孫である元伯宗旦の原則的な考え方であった。
(略)
当時は、必ずしも、露地、庭前の花を、いけなかったとも、思われないふしがある。

朝顔茶の湯の観念的な部分は、ざっくり略。

宗旦より後の時代に成立した茶話指月集が、露地に咲き誇る朝顔の存在を不審視していないのはどうしてなんだろう。こっちの方が不思議である。

茶庭に花を咲かすことに関し、宗旦の時代も特に禁忌ではなく、宗旦だけが問題視していた、という可能性もあるんじゃなかろうか。