禪人利休の生涯8
著者は利休と秀吉の対立の遠因に、豊臣家の宗教政策を挙げている。
大徳寺と秀吉との葛藤は天正十五年頃からである。
(略)
この頃大徳寺に並設して天正寺創建を思い付くが、導師がいない。そこで大徳寺中興の祖ともいうべき古渓をトレードする。
古渓は最初は引受けたがよくよく考えると大徳寺のライバルになる憂いがあるので、サボタージュに入り九州に流される。
つまり、本願寺を東西分割させて対立させたように、
しかるに大徳寺の寺勢が強大になることをおそれて天正寺建立を持ち出し、二大寺を並存することによって既存勢力をそぐことを秀吉は画策する。
大徳寺の対抗勢力を作ろうとしたと言うのである。
そしてその背後に石田三成がいることも。
ただし天正十五年から天正十九年までの大事件、就中天正寺建立、古渓配流、小田原攻めと宗二惨殺、大徳寺法難、利休追落し、続いて利休切腹の事件のウラには必ず三成が存在する。
つまり大徳寺を潰すのが目的で、利休の死はその過程であったっつーこと?
いや、ふつー大徳寺に危機感持つかな…。