松花堂昭乗2

昭乗の伝記の種本は二種。佐川田昌俊の「松花堂上人行状記」と中沼家譜の二種類。
佐川田昌俊は茶友。中沼家譜は一族である。

兄の元知は攝津に生れ、初めは喜多川與作と云つた。
幼少にして近衛信尹の御前に仕へたがその聰明にして人に勝れたるを認められ、近衛公の思召によつて遂に天正十九年三月、十二歳にして中沼家に認められ、後に左京と稱した。
中沼家は藤原魚名の眷族の末流にして、累代奈良興福寺の別當なる一條院門跡の諸太夫の家柄である。

つまり、兄が近衛家に勤めたおかげで、弟の昭乗も近衛家に勤めた、ということらしい。
まぁそれはいいだろう。

昭乗の父母の名は家譜にも記されず、全く不明である。
(略)
昭乗は祖先の事、父母の名、法號、忌日等一切人に對して云ひ出した事無く、其の弟子にさへ語らず、之れを訊ねても答へず、終に身此の事に就いては沈黙を守った。

兄が中沼家に入っているのにその出自が判らないというのはおかしい。
そもそも兄がどうして近衛家に出仕できた理由が判らないし。

あと、興福寺の一門が、石清水八幡で出家して、真言宗に入るのかさっぱりわからん。

何かと謎の多い人物だったようではある。