松花堂昭乗14

昭乗の遺蹟。というか松花堂庭園美術館の成立ち。

明治維新神佛分離の大變革にあひ、男山に多年昌榮を誇つた社坊も一切停止の已むなきに至つた。
京都府では明治七年の頃、槇村知事が社坊撮取拂を厳命した。

八幡石清水社みたいな、八幡神を信仰する真言宗みたいなトコは神仏分離の槍玉に挙がって仕方ない感じ。

なお槇村知事は都おどりをはじめさせた粋人。

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廃仏棄釈は国の政策なので別に槇村正直が取り壊せたのではないと思うが、この人五山の送り火もやめさせているので案外ガチの廃仏棄釈論者だったのかも。

取拂いの命急なるや泉坊の客殿は當時山麓にあつた大谷治麿(中山忠光の弟)へ六百兩で賣られ、其の邸地に移された。
(略)
其後大谷氏の去るや、件の客殿は明治十三年山路より八幡町志水の南端即ち西車塚の前方部の東方へ移された。
然るにその場所は低くして洪水等の憂があるから明治二十四年井上忠繼氏即ち西村芳次郎氏の父之を讓受け、更に東車塚の地に移し、なほもとの泉坊の庭園をも此處に移した。
此の如くにして、八幡宮の坊舍にして昭乗と縁故深い松花堂と泉坊の客殿庭園は今や東車塚なる一大古墳の上に築かれて合わせて此處に保存されてゐるのである。

西村氏は京都の生糸商人。
井上忠継は八幡の学者で、息子芳次郎が西村氏の養子になった。
でも豪商としての西村芳次郎ではなく、その父の井上忠継がこの遺構を保存したのだと言う。

ちょっと判らないのは、泉坊の庭園が移ったのは明治二十四年ということだ。
廃仏棄釈から17年。この庭はどこにあったんだろうか?
相当荒れ果てた状態で残っていたのだろうか?