茶道具の用と美2

林屋晴三と小田栄一の続き。

林屋 そうそう。それは鴻池道億が本長次郎とそうでないものという吟味をしているのですが、非常に卓見じゃないですか。宗旦さんが全部、長次郎、長二郎と書いておられるわけですよ。その中で、やっぱりどうもおかしいぞと、そういったことは昔から感じていた。で、道億が本長次郎とそうでないものとを区別して、結局、近代になって、長次郎というのはいろんな手があるじゃないか、その中で本当の長次郎は何だというふうなことがいま、言われているわけで、まだ結論は出ませんけどもね。

道億の時代に長次郎にそういう分類が為されていた、というのは知らなかった。
早船は長次郎ではない、とか、個別にそういう評価があるのは知っていたが…。

林屋 長次郎はね。長次郎もまだ本当の意味では謎の人物ですけれどもね。
小田 そうですね。しかし確かに厳然と物がありますからね。
林屋 あります。長次郎茶碗の作行きには随分違いがありますよ。長次郎、利休形と我々が考えるものと、そうでないものと、同じ長次郎といっても随分違います。何というか想いが違うんですね。形に従うのと、本当に姿に打ち込んでいくのとね。

でも結局最後は主観なのか…。
まぁ我々が道具をみて「すばらしいね」と思うかどうかは主観だから、仕方ないのか結局。

小田 先に飛んで悪いのですけど、金森宗和と仁清がよく似ていますね。
林屋 そうですね。
小田 宗和の息のかかった仁清と、仁清だけが勝手に走っている仁清とでは違いますもの。
林屋 どうも違うと思う。これはもうちょっと吟味しなきゃいけないんだけど……。

仁清にもそういう話があるのか…。

でもこの話、どう進展したのだろう?私は聞いたことがない。

鴻池道億は自分の手元の道具で分類するだろうから問題ないけど、
現代だと他人の道具を評価することになる。
いろんな人に不都合だから、立ち消えになったんじゃなかろうか?