茶道具の用と美
淡交社/1992年。
茶道具に関する対談を三つ集めた本。
第一章は林屋晴三と小田栄一。
いきなり濃いメンツ。
林屋 (略)利休における数寄道具の最たるもの、これはまた同じことを言いますけど、私はいま裏千家にある尺八だと思っているんですよ。
小田 あの尺八は、だいぶ妙なる楽を奏していますな(笑)
林屋 とにかく竹薮に踏み込んで、恐らく少しは立ち枯れていた感じの竹ですよね。
それを一本見出して、その中に自分の想いをかけて第一義の道具にしている。
これは世界に類がないでしょう。
中国にも、もちろん朝鮮半島にも、当然その当時におけるヨーロッパにもない、新しい一つの美の発見であり、やっぱり美的表現でもあったわけで、私はすごいと思っているんですよ。
その辺のありふれた物が名物クラスの道具になっている、というのは確かに世界に類がないかも。
あと小田栄一のリアクションが、大正期の数寄者そのままなのがムカツク。
林屋 広がりながらも、しかし、桃山のふるいというものの中から残された美しいものなんです。
小田 そうです。だから、もう婆娑羅の美学じゃないんですね。
林屋 ない。婆娑羅から、いわゆる書院会所の美学じゃないということですね。
小田 そうそう。それでいて、そのいいところはしっかりとっていますからね。
しみじみそう思いますね。織部から遠州へつながっていく美のつかみ方がね。
しかし後世の人間は、その過渡期を知らないので、すたれた別の美意識をベースに新しい美意識を作り出した場合、理解に苦しむのではなかろうか?
廃れても元の美意識から辿り直さないと正しい理解に近付かなさそう。
あー、あれだ。Javaのプログラムを教えるときに、「C言語とかと違って判りにくいポインタを廃しました」的な事をいいながら実際にはポインタの概念があるのでかえって教えづらい、みたいな奴。…わかりづらいな。