茶道具の用と美6

林屋 小間には向かないけれども、やっぱり茶の世界が伝えた絵で私が最もいいなあと思うのは牧渓の「漁村夕照」ですね。
(略)
小田 あれは年の暮れにあんなものでお茶をしたらどんな気持ちだろうと思いますね。何か鐘が聞こえてくるような気がしてね。
林屋 いろいろあるけれども、あの時代から牧渓の八景絵図の大軸というものが評価されてきたのは、やっぱりちゃんとした美的選択ですね。
小田 やっぱり幽玄を侘びに結びつけたからでしょうね。故宮やなんかへいくとしみじみ思いますね。お茶に掛けたい掛物なんて一つもない。
林屋 やはり少ないですね。中国人の美意識の完全主義の中では意外にないですね。だから、日本にある唐絵というのは、しかも今日まで伝わったというものは、侘び数寄の美意識を透過して残っているものであるという認識の中でやらないとね。中国絵画史上の見方とはまた違ったものですね。
小田 牧渓の「煙寺晩鐘」を中国へ持っていって「どうだ」と言ったって、そんなに評価しないかもしれませんね。

中国の美意識の完全性は、あらゆる方向に発達したわけじゃなくて、やはり中国人の美意識の中での最高を目指しているんじゃないかと思います。

その辺の話は以下を参照のこと。

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20090324

小田 『君台観左右帳記』の中に挙がっている中国の画家なんかでも、中国の美術よりは別の評価というか、基準がありますね。
林屋 それはそうでしょうね。それでいいんじゃないでしょうか。
小田 それをまた取り合わせて楽しんでいるというところに値打ちがあるのでね。何も中国絵画をこれが代表しているとは言っていない。
中国絵画のこいういう画を我々の世界で取り上げているという形ですよね。

逆に言うと、中国では茶に適う美術品がいろいろあったけど、今に伝わらず散逸したかもしんないね。

林屋 (略)ですから、「非常にお茶の世界というのは閉鎖的だ」、あるいじゃ「不完全なものを愛好する宗教だ」とか岡倉天心が言ったりするけど、岡倉天心の「茶の本」というのは意外につまらないところもある本だよ。外国人に日本のそれをちょっと諧謔を交えて伝えようとした本であって、あれをそんなに……。
小田 あれで理解されると困るんです。
林屋 困っちゃう。あんな浅いものじゃないよ。

岡倉天心自体が不完全な人だから…。