茶道具の用と美14

中村 (略)それまでは表向き大体蒔絵のものが多くて、常のものは黒とか朱でしたけど、そういう塗りというものに目を向けて、塗物の形や艶や色の表情というものをはっきり美しいものとしてとらえたのはお茶の世界だと思いますね。だから、初めは絵はあんまりないのですね。蒔絵がついてくるのは文化文政ぐらいから棗にもわりにね。
松井 蒔絵が多くなってきますね。

確かに利休所持クラスの棗は黒棗ばっかりだし、桃山江戸初期の棗で蒔絵と言えば高台寺蒔絵のかなりシンプルな奴で…。
ただ、これは技術的にできる、できないというより、流行なんじゃなかろうか?
派手派手しい桃山の文化だからこそ、侘び茶が流行って地味な棗が流行った、的な。

中村 認得斎宗匠のころから。
松井 そうそう、そのあたりから。
中村 認得斎宗匠のときに蔦の葉とか夕顔とか、ああいう王朝趣味の蒔絵が多くなる。あれも大変な改革ですね。
松井 あれは広間だからできたのかもしれない。
中村 やっぱり空間との関連なんですよ。広いところだと、そういうもので人の目をパッと寄せなければなりませんし、草庵だと、そういう静かな塗りの表情をね。ですから、物をつくるのも、使われる場所というもので随分変わってきます。

化政文化だと江戸後期も後期。不昧公の時代である。

んでも、だとすると元禄の頃になぜ派手派手蒔絵が流行しなかったんだろう?

茶の湯はすでに広間化してたと思うんだが…。

もしかすると、武家茶の湯は広間化していたが、町人の茶の湯はそうでもなかったのかな?
元禄が終わり、如心達が七事式を制定して町人の茶の湯の広間化に拍車がかかり、その結実が化政で花開いた、んだろうか?