茶道具の用と美16

中村 棚のデザインというのは、これ宗匠にしかできません。作り手が考えてするものではないのです。あれは点前の最も基盤になる部分ですね。ですから、大きさとか、高さとか、ここへ何を載せるとか、そういうことはお茶の宗匠の使い勝手から生まれる意匠というか。
松井 それと、結局その道具が主ではない。いわゆる棚なら、入れた水指を生かさなければいけない。飾った棗を生かさなければいけない。棚が主張してしまったらいけない。

棚のデザインは宗匠の仕事、というお話を宗哲さんから持ち出しているのが面白い。

自分の発案あるいはだれか茶人の注文で棚を作ってどっかの宗匠さんにたしなめられた事でもあるんじゃないか、と邪推。

松井 釜もそうです。このごろの作家の釜は陳列主体だから全体に文様を入れて鋳込んでいる。ところが、それは炉なら炉へかけたら上しか見えないです。そうなると、その辺を知ってつくるのと、見せるためにつくるのとの違いがあります。
三田 このごろよく、いまの釜でも花入でも、花を入れることが本来の使命ではなくて、「花入だ」と主張しているような花入があるでしょう。(略)
松井 それは、さっきから宗哲さんがおっしゃっているように、作家意識が強いからでしょう。

宗哲さんと松井業躰は「現代物は作家性が高くなり過ぎて実用しにくい」という苦言を呈しているわけだけど…。
他の作家に言わせりゃ「地味なもの作っても家の格で馬鹿高く売れる千家十職が勝手なことをいうな」じゃないかなー。

スタンドプレーして目だたなきゃ作家としてのしあがれない、という他の作家と、スタートラインが違うってことに自覚がないんだろうなぁ。