茶道具の用と美20

楽  最近、発掘なんかでいろんなものが出てきますでしょう。そういうのを見ていると、これは少なくとも利休さんとかかわりなかっただろう、利休さんは使わなかっただろうというような、もっともっと下手なものがガサガサ出てきますよね。そうするとそういう意味では、利休さんの存在というものと、それからいわゆるいま話している茶の湯一般の世相というものとがかなり離反があるだろう。だから、そういう意味でも、いまのお茶というのは利休さんのような方はおられない。そういう意味では中心がない。だから、いろいろな形の道具が出てくるというのはますます茶の湯がファッション化していく動きの一つではないかなぁとも思うし、逆にそういうファッション化を楽しむということ自体はある意味では茶の湯が日常生活の中に遊離しないで入っていくということでもあるような気もするし、一概にそれを否定するわけじゃないんですけど。そこで、茶美会に出席させていただいていると、非常に若い方を魅きつける魅力がある。わかっちゃうわ、これでもいいのかしら、こんな楽しみ方でもいいのかしらという。
伊住 そういう安心感を植えつけているというのはありますね。

千家の次男に「現代の茶には中心がない」という話しているよ楽さん。

現代の茶の湯ってのには、中心がないのではなく、ベクトルがないんだと思う。
集金機構としては成立していても、趣味として引っ張ってる人がいないから。

でもきっとそれは元禄時代からもうそうなっていて、そうじゃなきゃ「利休に帰れ」的なこと言わないもんね。

んで、どの時代もハイエンドの道具とローエンドの道具が作成されて来て、そん中で、利休的な遠州的な美意識のベクトルに適うものが生き残って来た、というだけなんだと思う。


あと、千家の次男がアッパーロウ的な部分の受け皿をやっている、というのも戦略的過ぎてビビるなぁ。