茶道具の用と美21

伊住 いずれにしても、いま主流になっている大寄せの茶会というものが、まだ完成していないと思いますね。
林屋(晴三)先生もいまの大寄せというのは完成していないというふうに言われてますよね。
三田 ええ、それはそう思いますね。
伊住 いまの大寄せの茶会を見ていて、あそこでお茶の精神というものを理解してもらおうとしてもむずかしい。どっちかといったら、呈茶というか、喫茶に近いでしょう。要するに茶を飲むということが主体になっているというかな。それこそ楽さんの茶碗なんかでもあったら、そんなのは出さなくて飾っておくわけでしょう。大体茶会でよくあるのは、いい道具は飾っておいて、「おかえで」と言って出すわけです。だから、やっぱりああいうのを見ていても、それでいいのかなという気はしますね。(略)

私は大寄せが嫌いで、ろくなことがないから絶対客にはなりたくないのだけど、安くもない茶券買って、下手すりゃ数時間も並んで、ようやく一杯のお茶にありつくのを、喫茶扱いも酷い。

客側がそれなりの労力を払っているのに対し、道具もったいないから飾るだけってんなら、そりゃ亭主の側の努力が足りないんじゃない?

三田 やっぱりまだおっしゃるように、大寄せというのは客と亭主が心つながるという場面が少ないので。
伊住 むずかしいですよね。楽の茶碗でも、例えば、本来ああいう狭い空間の中で、そして明りの中で見ている姿と、螢光灯の明かりで拝見するというのとにゃっぱり全然違うと思うんですよ。(略)
三田 たしかにそうですね。光線がね。(略)

道具に関する対談なので、あらぬ方向へ話は反れていく。


大寄せは、亭主にとっては知らない人が大勢やってくる会。客組をコントロールできないのに、客と亭主が心つながる筈がないやん?
お茶はそこまでオープンマインドじゃないよ。常釜に喫茶去を下げて知らない人をもてなすとしても、数名相手が限界じゃないかなぁ。

「大寄せは完成していないん」じゃなくて「大寄せはお茶本来の道じゃない」んだから、完成はしないと思うよ。
だから、場所や道具や客のせいにして未完成を嘆くのは傲慢だと思うの。