茶道具の用と美22

芸術家楽さんの長い長いコメントを要約。

楽  「新しい茶の造形」というところで考える場合、いま、何が足らないかというと、やっぱり空間、建築ですよね。
伊住 そう思いますね。
楽  新しいものを使っても、古いものを使っても、高麗茶碗を出して、次のときには同じ場所で新しい茶碗を使う。それはそれでいいんだけども、例えば僕はいつも思うんですけど、利休さんの一つの思想性というのか、利休さんの歩いてきた道みたいなものが、一番よく見えるのは何かというと、やっぱり長次郎の茶碗が一つあると思うんです。もう一つは茶席の空間だと思うんですよね。
(略)
その反面、こういうことも言えると思うんです。つまり、待庵のお茶席で長次郎の「大黒」を使って、いま誰かが釜をかけて、自分たち現代人としてお茶席に招かれて入ったときに、一体どうだろうという気がするんです。例えば、一体どうだろうという気がするんです。例えば、一体何をしゃべるんだろう、言葉を持てない。言葉を超えている。言葉なんて必要ない。おそらくそう感じるだろう。しかし、同じに言葉を超えた深まりの大きさを背負いきれない自分も発見するだろう。二重の意味において発する言葉がない。
(略)
現代の茶室、つまり空間が生まれてこないということは、いま言った意味では、自分たち現代を生きているものの、限界をあらわしていると思う。(略)

利休さんが建てた建物に、利休さんが作らせた?茶碗を持ち込んで、室町末期の雰囲気を味わうことはできる。

では、後世の人間は、平成の気分を茶道具でどう味わえばいいのか?そういったことのできる「空間」を現代人は用意できていないのじゃないか?

そういう意味だと思う。

ただ、凄いと思うのは、楽さん自身は自分の道具に関し、平成の道具として強い自信があるんだな、ということ。
現代の空間に関し問題を提起しているけど、自分の道具に関しては特に言ってないんだもん。