茶道具の用と美23

楽さんの、写しに関する考え方。

楽  写しというものがありますね。長次郎の写しとか。自分なんか、まずそれを造形的に勉強するということはあり得るけれども、少なくとも自分が長次郎の「無一物」を写すなんていうのは、何というのかな、まずとんでもなく隔たり、自分自身の立っている場所と茶碗との隔たりがある。その隔たりを考えればとても情けなくて、おそれ多くて、つくれないというのがまずあるんですよね。あえて写しをつくって世に出していくことにある種の作り手の傲慢さを感じますね。それとお茶をなさる方も同じじゃないかなと思うんです。そこで、じゃつくれなきゃどうするのだ。やっぱり自分なりにもがくでしょう。それでそこからものが生まれてくるというふうに思うんですね。でも、別にそこまでせっぱ詰めて考えなくたって楽しめばいいじゃないか、似たようなものが出来ればいいじゃないかというところではそれはそれでお好きなようにと思うんですけど。
(略)

楽家の先祖には写しを作ってた人もいるけどそれはそれ。

芸術論としては、素晴らしい。というか、楽というブランドに支えられているんだから、これぐらい攻撃的に芸術を追求していいんじゃないかと思います。昭楽さんには昭楽さんの言があると思いますけど。

同じ十職でも写しに関する考え方が宗哲さんと違うのが面白いですね。
宗哲さんちの塗り物は、ほぼ同じものが写せるという自信がある。でも、楽さんちの焼物は、それなりの偶然性もあるしで、写せる自信が持てないということもあるんだと思うんですが。