新修裱具のしをり2

古来表具師の名人として知られて居るのは利休時代の奈良屋西順がある。
其他にも名人は少くなかつたことであろうが伝らぬ。

うん。その人は知らなかった。

利休時代のみでなく、此れより以前の堺(泉州)は戦国時代にあつても戦争の惨害から免れて、商業は繁昌し、至て太平の別世界をなして居つて、百般の文物技芸は独り此地に栄えたので、当時の各般の名人は此に集中した。
殊にまた堺の茶人は点茶を喜んで其技盛に行われた。
折から利休は西順を奈良に見出したので彼を堺に招致したのである。

応仁の乱での京都の疲弊を考えると堺は文化首都になっていてもおかしくはないが、実際にそうなっていない。
紹鴎は京都まで和歌を学びにいったのであって、京都から和歌の師匠を招いたわけではない。
三好氏の庇護があっての繁栄だが、三好氏の中心が四国と京都なので、微妙に外れているのも影響しているかもしれない。

西順の生国は奈良の笠置の人で、中西氏である。
生国を屋号として奈良屋と称した。
西順から子孫は慶勝・慶音・慶庵・慶厳と相続した。
西順の事は彼は古来の表具の名人であるとより外には詳しく伝つて居らぬ。

えらい詳しく判っている気もするが…。
奈良屋西順は何を表装したのだろう?それは伝世しているのだろうか?

表具は勿論京都に発達したのである。
従つて其途の達人は此地に多かるべきであるが、名人の伝はらぬのは、其仕事が目立たぬからであろうか。

この時代一番有名な表装は松屋の「鷺の絵」で、それは珠光の手になるもの…ということになっている。
これぐらいのネームバリューがないと表具で名が残らないということなんだろう。