飛石・手水鉢10

飛石は前述のように発祥の当初は歩を選ぶに都合のよいように考えられた全くの実用の目的に適ったものである。
しかし露地というのが自然の景致に似るように造られるものである以上、全く実用にさえ適すれば、他はどうでもよいということはゆるされない。
植物、敷葉、石組等が悉く天然の景観を模範としていることは茶庭の精神である。
そこで『露地聴書』には飛石の打ち方についての準則ともいうべき「飛石は利休はわたりを六分に景気を四分に置申候由、織部はわたりを四分に景気を六分に置申候」という規格を記述している。
ここにいうところのわたりとは歩を運ぶ上に都合のよい実用的内容である、つまり石を伝って行く動作であるが、時には石の間の間隔を指す場合もある。
景気はまた単に景ともいわれ石のは位置から来る景致のとり方すなわち美観と鑑賞である。
利休時代初期の茶庭に於ては、飛石を打つにも実用の部分を十中の六、美観に至っては十中の四でよいとされたのに、時代が進んで織部の時代になると、これが反対になったのは茶庭の発達という上から見て審美観が実用以上に考えられたということを証明している。

ここで疑問なのは、茶庭の飛び石は当初から「目的地に誘う」ものだったのかということ。

最初の頃は、足元の特に悪いトコに石を置いただけで、ホント実用一点張りのものだった可能性はある。

で、その「最初の頃」がいつの時代かによって、利休と織部で差が付くかどうかが決まると思う。早期に…たとえば珠光の頃に発明されたものなら、利休の頃には爛熟して、大差はなくなると思うし。

あと、織部の作意と言われる?燕庵の露地はわたりも景気もかなりハイレベルに思えて、この話と合致しない気がする。

ちなみに『露地聴書』は南坊宗啓の著書…ということになっているらしい。
「わたりが六分」の話は石州三百箇条にはあるが、南坊録には出てこない内容だと思う。
そもそも、利休三回忌に出奔した(という設定の)南坊宗啓が、織部と利休を比較するのは無理がある。
実際南坊録本編では、会記に名が出る以外織部の出番はないのである。
どう考えても後世の仮託で、いまいち信憑性が乏しいのだが…。