天目茶碗考2

天目茶碗の名稱は日本で附けた名で、支那の書籍には其所見がない。

中国での呼び名は何だろう?大觀茶論でも「盞」でしかないので、固有名詞は与えられていなかったのかもしれない。

此名稱に就ては種々の説がある。就中其主要なるもの四を擧げると

一.建盞の釉に斑點あるものを星建盞と云ふ。星あるにより天目と稱す。後に至り
ては、此點なきものにても、同種のものを概稱して天目と云ふ。(略)(北村節信嬉遊笑覧)
二.建安縣天目山にて燒きしより此名あり(茶事談及茶道筌蹄)
三.天目山にて造りしものなれば此名あり(此説出所を知らず伊東博士より傳聞す)
四.宋代求法の禪僧等天目山より将來して此の名を附す(今泉雄作氏の説なりと傳聞す)

2と3はほぼ同じものではなかろうか?
あと、2以外はずいぶんと新しい説なのではないか?

第一の北村節信の説は面白きものではあるが唯想像により作り出されたものゝ如く、今泉氏の説に據れば北村節信は茶器の好事鑑定に乏しき人にして其説には杜撰多しとの事であるから輕々には信じ難い。

論拠が人格攻撃なのは如何なものか。

ただ、茶の湯界がこの手の「面白いこじつけ」を受け入れ過ぎて来たのも事実なんで、慎重になった方がいいのも確か。

又、第二、第三の説に就て考ふるに浙江省天目山にて製陶の事及び福建省建安縣に天目山と稱する山のある事は、共に支那の書冊に其所見がない。或は天目山の附近にて造りしものを天目山にて造りしと傳へたものか。
又天目と稱する地名が嘗て建安に有り、今は其名を改めたのであるか。證據なければ明瞭でない。
(略)
第一乃至第三の説の信じ難い事は上記の通りであるが、此等の説に比すれば第四説即ち今泉氏の説は最信ずべきものかと思ふ。

ただ、その場合も「なぜ天目山なのか。天台山等でないのは何故か」が説明できないといけないと思う。それには、天目山の附近でしか禅の茶礼が行われていなかったという証明が必要ではないだろうか?

何となれば浙江、福建の二省は支那の宋元時代に於て彼我禪僧の荐りに往來した處で(略)
加ふるに天目山は有名なる茶の産地であるのみならず、其附近に製陶事業が盛んであつた事などを考へ合はすれば、此説は他の諸説に比して稍々信ずべきものゝ樣である。

浙江省の天目山附近で製陶業が盛んであったなら、それは第三説の補強要素に他ならないのだが…証拠の取捨が少々恣意的ではないだろうか?