天目茶碗考4

我邦にて佛前に天目を飾りし事及其将來の年代

(上略)亭主之息男、献茶菓梅桃之若冠通建盞(下略)(玄恵法印喫茶往來)
(上略)茶盞間燒香之煙副建盞着供華之薫相移(中略)依之横鼻端於建盞之鰭、着精採於茶盞之前

建盞の我に傳はりし年代に就ては、茶事談に珠光、引拙、珠報三人の所持する茶盞は各青磁にして、此三人の時代には未だ建盞本朝へ不來と記し、其傳來を足利時代の末なりとして居る。
しかし正平五年に没した玄恵の喫茶往來に既に建盞の文字あるを見れば其渡来は斷じて南北朝時代以前に在りし事は明瞭である。

建盞が日本に伝わった伝承としては、珠光の時代にはまだなくて、珠光が使っていたのは青磁であった。室町時代の末期に伝わった…と江戸中期の茶書「茶事談」に載っていた、という。

でも、室町時代初期の「喫茶往来」に載ってるので、そんな事ないよ…という話。

いや、鎌倉時代には入って来てないとおかしいんじゃないか?
明代には喫茶の主流は煎茶に移行するんだから、その時代に招来したらあんな黒い茶碗輸入してまで使わないと思う。
当時の日本は文化大国中国の流行に敏感なんだから。

珠光達が青磁を使っていたのはそういうのを尊ぶ美意識だったのと、中国朝鮮での器の流行が、中国での煎茶人気に引きずられて青磁にシフトしていたからだと思う。

尼崎台あたりを削って年代測定とかできりゃ、ある程度確認できると思うんだけど。