天目茶碗考16

ついでに磁器とかの話。

支那の磁器
支那にて磁器と稱する物の中には青磁白磁の如き種々の物を包容し、又は極めて之を狭義に用ひて磁州に産する石を粉碎し之を原料として燒きて製したるもの、或は之と全く同質のものゝみに限りて稱する等區々である。
(略)
磁州窯 始磁州、昔属河南彰徳府、今属北直隷廣平府、稱磁器之蓋此又磁石製泥為坯陶以名也(略)

磁器が磁州窯という窯名にちなんでいるとは知らなんだ。

なお今磁州窯が製造しているのは白泥厚手の陶器の模様…どういうこと?

○色釉の發明及其唐代に於て盛に行はれし事

色釉に就ては、三國魏の時代に宮殿を装飾するに、青磁を用ひたりと云ふ記事を始めとして、晋の時には閩地に於て之を製したと云ふ。
ホブソン氏は之は緑釉の事ならんと考へたが、此考は至當だと思ふ。
(略)

このあたりになると発掘調査した方がいい感じ。
文献だけで追っかけるのは無理があるかな。

○染附の創製

饒州窯 御土窯體薄而潤色白花青較定器少次(格古要論)
(略)
即ち宋代の饒州窯及び元代の南豊窯には共に、既に染附即ち青花があつた様に見える。
(略)
一説に宋代既に青花の發明ありしが、官窯として之を秘し、一般の需要に應ぜなかつたとも云ふ。
傳ふる所に依れば藤四郎支那の染附けを見て、渡宋の念を起こし、道元禪師に随行して支那に到つたが、染附の窯は御用窯にて常には焚かず、焚く時も雑人を入れざる為に之を見る事を得ずして、茶入れを燒く方法のみを傳へて歸朝したと云ふ。是亦一説として見るべきものかと思ふ。

藤四郎が染付を作りたくて渡宋した、と云う話は面白い。

茶入が珍重されたのが室町期なのでつい忘れがちなんだけど、藤四郎は鎌倉時代の人なんだよね。

だけど、これだと茶入は余技って事になるし、帰朝した後も染付造りのために工夫や努力をしなかった人ってことになってしまう。
それはあんまりなんではなかろうか?