天目茶碗考17

藤四郎の続き。

藤四郎即ち尾張瀬戸の陶祖加藤四郎左衞門の入宋して陶法を學んだ事蹟に就ては従來種々の説があつて、其入宋を後堀河天皇の貞應二年(洋暦千二百二十三年)なりとし、永平寺開山道元禅師に随ひて渡宋し、居る事五年にして、安貞元年に歸朝したと云ふ事は諸説一致して居るが、其受業の地に就ては陶器全書には建安の天目山に於て陶法を學びたりと云ひ、横井時冬氏の日本工業史には、建窰に就て陶製の法を修むること六年と記し、建窰の註に福建泉州府徳化縣と書してある。
建安に天目山と稱する山の無き事は前に既に説きたる通りである。
又徳化窰は今の建窰ではあるが、宋代の建窰ではない事は上記の如く景徳鎮陶録に明記されて居る通りである。

藤四郎伝説では、

  1. 道元随行して入宋
  2. 天目山だか建窯だかで修業

というのが基本パターンだという。
しかし著者は異を唱える。

藤四郎が道元禪師に随ひ入宋したものとすれば、其上陸地は明州即ち今の淅江省寧波府で(本朝高僧傳巻十九道元傳に依る)福建省徳化縣とは其距離頗る遠く(明州より徳化縣までは我里程にて約二百五十里あり)却て淅江福建二省内にて近き處に幾多有名の製陶地がある。斯かる遠隔の地にして製陶業の未だ開けなかつた徳化縣に赴くべき筈がない。
此等の理由により、余は藤四郎の製陶學習の地を建寧府で、徳化縣ではないと斷定する。
(略)

道元と一緒に行ったなら、なんで道元から離れて700キロも先の窯場に移動したのか?
もっと手近にいい窯場があったんじゃねーの?と著者は言う。

中国語が出来たかも怪しい、経済的に豊かか怪しい、留学生でもない藤四郎が独り遠方の窯場に修業に出るのは確かにおかしい。
道元の庇護の元、近場の窯場で基本的な修業と中国語学習をし、その後希望の窯に行くならまだしも、であろう。

…個人的には、藤四郎の入宋自体に異を唱えたいけどね。