つくられた桂離宮神話2

まず最初に、ブルーノ・タウトの話からはじめよう。
桂離宮神話のカギは、このドイツ生まれの建築家がにぎっている。
なにをおいても、タウトの問題からはいっていかねばならない。
「私は桂離宮の『発見者』だと自負してよさそうだ」。彼、ブルーノ・タウトは、日本滞在中の日記にそう書きつけた。
(略)
タウトが日本にやってきたのは、一九三三(昭和八)年の五月である。
以後、日本では三年半ほどをすごしている。その間、タウトは日本各地を見聞した。
(略)
桂離宮伊勢神宮、玉泉、鉄斎などについての印象記を発表したのである。
反響は大きかった。
とくに桂離宮についての文章は、読書人たちの注目するところとなった。
彼は、いちやく桂離宮の「発見者」として読書界の脚光をあびるようになったのである。

外国からやってきた建築家が、日本人の見過ごしていた桂離宮の美しさを「発見し」再評価が始まった。
これが桂離宮神話のスタートである。

著者は史料から丹念にそのからくりを暴き出す。

とはいえ、すべての論者がこの伝説を認めているわけではない。
(略)
たとえば、蔵田周忠である。彼は、当時のひとびとの「不見識を嘆く」。「とかく『日本美の再発見』の開祖をタウトにもつてゆく人が」いることを難じる。
そして、タウト「の前にどれだけ多くの熱心な再発見者があるかを注意しておきた」いとうったえる。
また、伊藤正文もつぎのように力説した。
桂離宮の優れた美と良さとは、実はタウト氏にまたずとも、すでに日本の建築家が認めていた」。
(略)
桂離宮イメージは、タウトが日本へくる前ごろから浮上しはじめていたのである。

タウトが来る前から、桂離宮の美に関しては、建築界で再評価がはじまっていたのだという。
なぜか。

ここで、岸田日出刀という建築家に注目したい。
(略)
岸田は、大学という組織のなかではめずらしくモダニズムに共感をしめしていた。
(略)
その岸田が、一九二九(昭和四)年に注目すべき本を出版している。
『過去の構成』と題されたもの。法隆寺桂離宮をはじめとする古建築の写真をアレンジした写真集である。
(略)
彼は、日本の伝統的な建築に、しばしばモダニズムの理念を見るという。

この時代に勃興してきたモダニズム建築が日本にも到来し、それに傾倒した建築家たちが、すでに日本建築の中にモダニズム要素を捜していたのだと言う。

そして、モダニズム建築と、それ以前の表現主義建築の、建築家同士の主導権争いがあった、と。

タウトが、旅行先として日本を選んだのには事情がある。
じつは、前年の夏、彼は日本の建築家たちからの紹介状をうけとっていた。
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翌、五月四日、日本についたばかりのタウトは、はやくも桂離宮を拝観する。
「泣きたくなるほど美しい印象だ……眼を悦ばす美しさ……日本は眼に美しい国である」。日記にもそう書きつけた。
それにしても、日本到着の翌日とは、たいへんスピーディな拝観である。
(略)
どうやら、タウトの桂離宮見学は、あらかじめ上野らが手配をととのえていたらしい。
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だいたい、タウトを日本によびよせた「日本インターナショナル建築会」じたいが、モダニズムを標榜する団体であった。

タウトの日本訪問と、桂離宮見学は、日本のモダニズム建築家たちにより計画的に行われたものだという。

なんだよ!「世界が驚いたニッポン」みたいなテレビ番組の手法じゃないか!
いや、視聴率が稼げりゃいいやのテレビ番組と違い、自分達の意見を主流派にするために外人に補強させるっていう、もっとタチの悪いやり方よな。

モダニストたちは、モダニズムの文脈で日本建築を考えていた。
桂離宮東照宮にたいする評価も、そうしたコンテクストにねざしていた。
そして、タウトにもそういう鑑賞姿勢を教示する。
(略)
タウトは、けっしてモダニズム一辺倒の鑑賞をしていない。
(略)
けっきょく、タウトはモダニストではなかった、ということなのだろう。
じっさい、ドイツでのタウトは、いっぱんに表現主義の建築家として位置づけられている。

タウトはモダニストではなく、コルビジェ建築を駆逐しなくては!とか思っていた表現主義の人だったということ。
そこが日本のモダニスト建築家と意見があわず、日本ではろくに建築作品を残せなかったのだという。
なんというか、皮肉な事だ。