つくられた桂離宮神話3

ブルーノ・タウト東照宮を酷評した。しかし、東照宮を悪くいうことじたいは、タウトがはじめたもたらした議論ではない。彼以前から、モダニストたちは、東照宮への嫌悪感を公言していた。この建築の趣味の悪さをタウトに教えさとそうとしたものすらいる。世につたわるタウト伝説は、この点で誇張がすぎるというべきだろう。

タウトはモダニストたちに呼ばれ来日し、桂離宮を誉め、東照宮を腐した。
外人のスポークスマンの権威をうまく利用したモダニストたちの作戦勝ちである。
このやり方は、今でもいろんなところで行われているな…。

では、その前はどうだったのか。モダニズム勃興以前の時期には、東照宮はどのように評価されていたのか。まずこの問題からとりかかろう。
(略)
さきにものべたが、桂離宮の場合だと、モダニズム以前の評価は低かった。
(略)
決定的な変化がモダニズム前後にあったというべきだろう。しかし東照宮についてはそうでもない。
(略)
それは伊東忠太東照宮評を読めばよくわかる。一九○一(明治三十四)年の『稿本日本帝国美術史』で、東照宮をこう評した。

意匠豊富なりと雖、形状完美ならず……(略)

つまり、明治中期には東照宮は「ゴテゴテして醜いもの」と評価されはじめていた。
モダニズムは昭和初期だから、ずいぶんと前である。

まぁ東照宮の場合、江戸時代には文句つける命知らず居なかったろうから、明治以降になるのは仕方なかろうが。

さて、伊東はもともとは日光の東照宮を好んでいた。しかし、東京美術学校で教鞭をとったころをさかいに、これをきらうようになる。そして、伊東は同校校長の天心から多大な影響をうけていた。だとすれば、東照宮にたいする認識が一八〇度逆転したのも、天心による示唆のたまものだったとはいえまいか。

またお前かぁ!

日本の茶の湯や美術史に、謎の介入をする岡倉天心のおせっかいはほんと困ったもんである。

では、なぜ、このような雰囲気が美術界において形成されたのか。ひとつには、「美術=ファイン・アート」という概念の輸入があげられるだろう。
(略)
いうまでもなく、東照宮は表面的な装飾技巧が前面におしだされた建築である。「美術」の立場にたつものならば、まずその点に反発をしめすだろう。
そして、明治中期とは、「美術」界の指導者たちが、日本にも「美術」を定着させようとしていた時期でもあった。

なるほど…。

西洋からモダニズムが入って来た→桂離宮をその文脈で誉めてみよう。
西洋からファイン・アートが入って来た→東照宮をその文脈で貶してみよう。

なんも変わらんのね。