つくられた桂離宮神話4

『国民性十論』という書物がある。
東大の国文学者・芳賀矢一があらわしたもの。今日でいう日本人論、日本文化論の一種である。出版されたのは一九〇七(明治四〇)年。このなかに東照宮についてふれたところがある。それを左にひいておこう。

日本人は多くの造形美術を仏教から受けた。三韓支那を通じて間接に印度式を習ひ得たのである……仏壇の金色燦爛たる、天蓋幢幡の翩々たる、西洋の客座敷を連想せしめる。欄間の込入つた彫刻も、彩色も日本固有の神社とは大違である。已に神仏を混淆した以上、これが神社の上に影響してくるのは免れぬ所で、其最も著しいのは日光の東照宮である。

絢爛豪華なデザインは「日本固有」のものではない。海外から日本へもたらされた文化である。芳賀はそうきめつける。
(略)
事態はあきらかである。近代以後の日本文化論には、あるきまりきった書きかたがあった。簡素な意匠を日本的とし、華麗なものを非日本的とする書きかたである。
(略)
では、なぜそのような紋切型として成立したのだろうか。つぎに、この問題を考えていかねばならない。
ひとつの可能性としては、日本と西洋の遭遇という事態があげられるだろう。西洋文化を目にしたひとびとは、いやおうなく西洋と日本のちがいを知らされる。
じじつ、日本文化論の執筆者たちは、しばしば両者の相違を強調した。
(略)
西洋建築と日本建築のちがいは、一見すればあきらかだった。前者のほうが宏壮であり、後者のほうが簡素だったのである。
(略)
ひとによっては、日本建築のほうがみすぼらしくうつることもあっただろう。
しかし日本文化論の執筆にあたっては、日本文化の劣等性ばかりを書きたてるわけにはいかない。

日本が海外と触れ合うにあたって、「何をして日本的とするか」という判断があった、ということ。そしてその際にチョイスされたのはシントイズムだったということ。

つぎに、幕末期以後における、ナショナル・アイデンティティーの模索という面もかんがえられるだろう。

こっちもおんなじ話だよね。


だが、簡素こそ日本…というチョイスをしなきゃいけないわけではない。
東照宮こそ日本である、というチョイスだって可能だった筈だ。

でも、そうはならなかった。

廃仏棄釈の影響や、徳川幕府への反感もあっただろう。

でも、明治中盤の政府と財界上層部に大量の茶人が居たことが原因にあったりしなかろうか?